軽井沢の意外な歴史

軽井沢町内の不動会社で話を聞くと、「浅間山荘が今でも残っていることを、地元の人もあまり知らないと思いますよ。そもそも若い人や新しく移住してきた人は、あの事件が軽井沢で起きたことすら知らないんじゃないかな」と言う。(デイリー新潮)

 

あさま山荘事件」っていうと、多くの人は「寒い地方の山奥で起きた事件」っていうイメージは何となくあると思うんです。しかしそれが具体的にどこなのか?と言われたらなかなか答えられないんじゃないかな?と。答えは軽井沢なんですが、僕らが思う「軽井沢」って、大抵は「旧軽井沢」か「中軽井沢」で、浅間山荘がある「南軽井沢」はそういうメジャーなエリアからは外れているんです。現場の麓には「レマン湖」という湖があって、かつてはその周辺は賑わったそうですが、浅間山荘は更にその奥だから、観光客がそんなふらっと行くような場所ではないし、「旧軽井沢」や「中軽井沢」の住民も滅多に行かないような場所だし、そもそも意識してないと思います。

 

しかし何故あのようなことになったんですかね?まあ、今でもネット上で左翼っぽい人が、しょっちゅう「分断」っていう言葉は使いますが、でも上手くまとまれないのはあなた方だと。ちなみに原発なんかは「分断」の一つの原因に過ぎず、原発やその計画がない地域でも、住民同士のいざこざってあります。海外でも、日本人同士のいがみ合いはあります。先に住んでた日本人が、妙に先輩風を吹かせるとか。

 

ドイツなんかは確かに「分断」されて、もう馬鹿なことをやらないようにされたこともありましたが。まずは東西に分けて、東側にあったベルリン(日本で言えば東京に相当する街)を更に東西に分けるっていう徹底ぶり。しかし、西欧にとってソ連が脅威になった時、西ドイツにある程度力を付けることを許して、ソ連の脅威からの防波堤に使ったわけです。